映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観て思った5つのこと

某店で開催された『ボヘミアン・ラプソディ』上映会に潜入してきた。

店主は言った。「ワシが見とるだけじゃ~文句あっか!」

誰も文句は無かった。個人的に鑑賞するだけならアマゾンも何も言わないだろう。

かくして上映会ははじまった。

見るのは2度目だという人もいた。

人気の映画だからそりゃそうだろう。

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フレディ・マーキュリーは実はマイケルジャクソンだった?

映画はフレディ・マーキュリーがバンドに参加する場面から始まった。

少年の面影の残るフレディ少年はどこかマイケルジャクソンを彷彿とさせる風貌だった。(少し白くなった頃のマイケルだ。どこか童心を隠せないという意味において。)

なぜ、現在よく知られているような「ちょび髭のマッチョ風」になったのかは本編を観てのお楽しみ。

バイセクシャルについて。

若い頃のフレディはイケメン風で、古いクィーンのライブ映像を見ても、「これがあのフレディ・マーキュリーか?」と見紛うほど。

だが、やはりフレディはフレディなのだ。

後々のクィーンこそまさにロックバンドの象徴だ、と言う人もいるだろうし、バイセクシャルだからどうのこうの書く気はない。

天才と凡人

むしろそうだからこそ、フレディはあの詩と曲を作り上げたのかもしれない。

天才の苦悩や葛藤など凡人には分かるはずがない。

分かろうとすることがもはや「あざとい」と思ってしまうのは軽い嫉妬心だろうか?

しかし、多くの人が共感し、讃えたからこそクィーンの栄光があった。

フレディ・マーキュリーは巨大な叙事詩を作り上げ、クィーンという伝説のロックバンドを作り上げた。それはもはや幻想というより事件そのものだった。

クライマックスのライブ映像は圧巻!!

本編には、色んなドラマがあったけど、やはり一番印象的なのはラストの『ライブエイド』のシーンだろう。

そこに至るまでに多くの伏線が敷かれ、全てがそこに集約されている訳だから、重厚なストーリーだ。

しかし、もはやクィーンというバンドそのものが巨大な叙事詩なのだから、映画はそれをなぞれば良いだけだった。

自叙伝だと読む人が限定されるし、映画で分かりやすく多くの人に届ける、という手法はヒットした。賛否両論はあったにも関わらず。

映画本編を観た後のライブエイドは格別だった。

映画の余韻に浸るというのが最高なのだ。

ぼくはもはやクィーンをしばらくの間、聞きたくない。

だが、またしばらくしたらクィーンのあの旋律が聞きたくなることは間違いないだろう。

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